Chantal Dumo ~ささやかな癒しと自由を求めて~

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父の背中を見て学んだ「諦めないで努力すれば夢は叶う」(ライティング講座課題より)

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お盆の時期なので、21年前に亡くなった大好きな父を偲んで書いた文章を載せます。こちらは、この春FWAライティングスクールの課題として、2000w程度で家族のルーツをまとめたものです。本文中の人物名、写真は全てフィクションです。昭和の勢いのある時代に最期まで自分らしく生き抜いた父親の記憶を辿りながら....。

父の背中を見て学んだ「諦めないで努力すれば夢は叶う」

私は3つ年上の兄と素敵な両親に恵まれました。幼少期から過ごしてきた家は、広々としたリビングルームのある洋館風の建物でした。父のマモルはメンズ・ファッションの仕事をしていたので、クローゼットには数えきれないほどのジャケットやスーツ、ビジネスシューズがありました。子どもながら、ファッション誌から飛び出してきたようなお洒落な父を見て、「いったい、お父さんはどんな仕事をしているのだろう?」と不思議に思ったものです。

母のカズミは21歳で兄を、24歳の時に私を産みました。愛嬌のある母は人付き合いの才能があり、周りには自然と人が集まってきました。

母より7歳年上の父は59歳で他界するまで、そんな母を慈しんでいました。

子どもの頃は気づかなかったけれど、父は仕事上たくさんのプレッシャーを抱え、母も大変な時期を過ごしたようです。しかし、そんなそぶりをおくびにも出さずいつも明るく前向きに接してくれた両親は、芯が強く忍耐力があったのでしょう。

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カズミは子ども時代に忍耐力を養いました。終戦の半年前、カズミの母は空襲警報のなか、防空壕を行き来しながら大阪の自宅でカズミを出産。カズミの父は戦死し、彼女が父親の姿を見ることはありませんでした。

カズミは小学生の時、母を病気で亡くしました。その後カズミの祖母が母親代わりになり、10才以上離れたカズミの兄や姉が働いて家計を支えたそうです。カズミは中学生になると、年老いた祖母の代わりに家事を一手に引き受けました。子ども時代に甘やかされることなく家を支えてきた経験が、カズミの強さや忍耐力を作り上げたようです。また愛嬌の良さと社交上手は、商売人だったカズミの祖父から気質を受け継いだのでしょう。

一方、父のマモルは鳥取県の梨農家出身です。7人兄弟の末っ子であったため、年の離れた兄弟姉妹から大いに可愛がられました。戦時中に子ども時代を過ごしたとはいえ、鳥取県は爆撃などの被害がなく、食べるのに困りませんでした。上の兄達が梨農家を継いだため、マモルは高校卒業後に鞄一つで大阪へ上京。学生時代に洋画を観て夢中になり、外国文化に憧れたロマンチストな青年は、ファッションの世界へ飛び込んだのです。

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父、マモルの最初のキャリアは、オーナー社長が経営する中小アパレル企業からスタートしました。植木等の「スーダラ節」という流行歌がヒットし、上司におべっかを使うような調子の良い人間がもてはやされた時代です。そのような風潮のなか、人に頼らず黙々と自分の仕事を追求する父は周囲から可愛げのない人物と思われ、嫌がらせや反発を受けることもありました。しかし反発が多いほど「負けるものか!」と父は発奮したのです。

まだ海外の情報が乏しい時代に父は外国からファッション誌を取り寄せ、スタイリッシュな紳士服を企画デザインしてきました。

そんなとき、出会ったのが同じフロアーで働く母でした。職場で一匹狼だった父は、人気者の母が魅力的に写ったのでしょう。母が20歳の時、社内結婚をしました。

それから間もなく、東京の大手百貨店からプロデューサーのオファーがあり独立。その後、右肩上がりの経済成長のなか時流に乗れたおかげで、英国専門の紳士服を扱う会社を立ち上げて軌道に乗せました。

父の人生は、いつも順風満帆であった訳ではありません。仕事が順調でテレビや雑誌、書籍などマスコミに露出し始めた時、父はイメージが大切なファッション業界で命取りになるほどの大怪我に見舞われました。

スキー場で大腿部の複雑骨折をし、「生涯足を引きずる恐れがある」と医師から宣告。父が転職を考えるほど、再起までの道のりは険しいものでした。そんな辛い時期でも「負けるものか!」と数年間のリハビリに耐え足を完治させたのは、新しいブランドを作る夢を諦めたくなかったから。反骨精神のある父には、一歩外に出ると支援者と同じくらい多くのライバルがおり、一時の油断も許されなかったようです。

父にとって家庭はホッと気が休まる場所だったようで、複数の仕事を掛け持ちしているにもかかわらず平日19:00過ぎには帰宅し、家族との時間を大切にしていました。

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兄が結婚し家を出た数年後、私の結婚も決まりました。そんな時、幸せが崩れる予兆が1つ2つと現れたのです。1つ目は、魚の骨が引っかかったと言う父が吐血。実際は魚の骨が原因ではなく、密かに癌が進行していたのです。2つ目は、白い封筒に黒いリボンの手紙。手紙はおそらくダイレクトメールのようなものでしたが、黒いリボンから不吉な印象を受けました。

私の結婚式の1か月前、父の身体は鉄板のように硬直し、彼は身体の痛みを訴えました。そして数か月後に、余命1年半の血液の癌と診断。それからは、2人暮らしとなった母が献身的に父を支えました。

父の生き様は最期まで見事なものでした。病気と真正面から向き合い、主治医と相談しながら前向きに治療へ取り組みました。普通の人では耐えられないと言われる痛みを抱えながら書籍の執筆活動を続け、最期までこれからの仕事の夢を語ってくれました。

父は好きな仕事を存分にやりきりました。父の人生は、まるで短距離走者のように爽快に駆け抜けた充実したものだったに違いありません。そんな父の生き様、それを柔らかく支えてきた母の強さ・優しさは、私の誇りです。









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